2009年08月03日
言葉の萌芽
(「おっぱい」を差す言葉という意味で、 実際は「おんまい」「うんまい」「おんま」「うんま」など)
だけでしたが、最近数が急激に増えてきました。
・「ばあー!」
いないいない、と言うと続けて「ばあー!」と言います。
自分からもいないいないばあー!をしてきます。
・「シーッ」
トイレでシーシー声掛けてたら、トイレに行くと自分で「シーッ」と言うように。
だからといって完全にオシッコ=「シー」とは結びついていない模様。
単に「ここは『シーッ』と言う場所だ」という認識のようです。
絵本「もこもこもこ」の「シーン」としたページで「シーッ」と読んでいたら
娘が自分でめくる時には「もこもこもこ」は全ページ「シーッ」になっています

そして「わうわう」=犬

最初は「ヴォフヴォフ」というような、本当に犬の鳴き声をその通り真似た音だったのが
「ヲウヲウ」になり、「わうわう」になり。
初めて「ヴォフヴォフ」と言うのを聞いた時は
「何て瑞々しい感性!(?)『わんわん』なんて刷り込まれなければ自分に聞こえた通りに真似るんだ!」
と感激

私も娘のマネをして「ヴォフヴォフ」と鳴いていたのに、
娘の方から1ヵ月ほどで変化してしまいました。
保育園で絵を指して「これはわんわんよ~」なんてやってるんだろうなあ。
またひとつ人間社会に馴染じんだようです。
シュタイナーは幼児語で話しかけないように言っているとどこかで読みかじった気がするけど、
私は反対~。
脳科学的には二度手間だから最初から正式な名称で、とも言うらしいけど、
人間の成長に無駄を省こうという考え方自体が私は怖い。
高校の校長先生が卒業式に言ってたし!
「小さな無駄はただの無駄だが、大きな無駄は無駄ではない。
無駄は文化。これから大いに無駄なことをするように。」
と。
進学校の校長先生が言うことか!と感激しました。(卒業するから言えること?!)
童謡なんかにも「あんよ」などはよく使われているわけだし
美しい言葉の文化として愛しんでいきたい気がします。
私は、小説「赤毛のアン」の続編「夢の家のアン」でアンが言ってたことに全面的に賛成!
(私「赤毛のアン」フリークです

アンが生まれてきた赤ん坊に「○○でちゅね~」と話しかけるのを見て
「妊娠中に読んでた育児本に通り幼児語は使わない!宣言してたのはどーなったわけ?」
とギルバートがかわかうと
「こんな可愛いらしい赤ん坊を目の前にして使わずにいられないわよ!そうでちゅよねえ?」
という意味合いの返事をするのです。
でも、牛乳のことを「にゅうにゅう」とかは、保育園に行って初めて知りました。
最初何のことかわからなかったもの。
お茶は「お茶茶」とか。ここまでくると業界用語のような感じがしてきます。
人が幼児語で赤ちゃんに話しかけているのを見ると嫌な人もいるらしいので、
私は子どもと2人の世界の時だけでいいかなあ、と思っています。
2009年07月26日
読んでくださる方へ
子育てをテーマに書くとなると、自分の価値観を全面に出すことになり、
情報提供だけならまだしも、
日記を書くとなると、私はこれを大事にしたい、ということに付随して
こうはしたくない、ということも書かざるを得なくなります。
いや、そういったことに触れずに書ける方もいらっしゃるのだろうけれど、
私の場合は避けきれないです。
それでも書きたいと思ったのは、
「シュタイナー 熊本」で検索した時になかなか情報が出てこなかった頃の失望感が強かったからかな。
結局、ネット上に情報が流れていないだけで、
実践されている方があちらにもこちらにもいらっしゃるとわかってきて、
もったいない!と思ってしまった。
私みたいに情報の片鱗でもいい、と必死に探している人に
きっかけとなる部分だけでも見つけやすいように載せておけば
状況って変わるんじゃないかって。
実際、このブログを始めてから、シュタイナー的な子育てを実践されていたり、価値観の近い方との
すでにたくさんの出会いがあり、今ではやっぱり始めてよかった!と思っています。
知らない方でこれを読んでへー、と思ってもらって熊本にシュタイナー的な子育てをしてる人が増えたら
シュタイナー幼稚園や学校ができたり、
今が1なら3か5くらい、各地で催しや勉強会・体験会などが行なわれるようになったりして、
地理的にも多分金銭的にも、もっと参加しやすくなるんじゃないかなって。
手間隙かかることは理解できるけど、子どもにあまりお金をおかけるのは趣味じゃない。
↑あ、ほらこういう風に、あちこちで私の価値観が滲み出てしまうのです・・・
で、初めの部分に戻ります。
こんなこと書くのも大前提すぎておかしいとは思うのですが、
私がここに書いていることは、私の価値観なので、
私が「こういうの嫌い」とか「こうはしたくない」とか書いていることは
読んでくださっている方の価値観を否定するものではありません!
読んで嫌な気持ちになる人がいないように、と細心の注意を払って書いているつもりですが
「嫌い」も書かないと嘘になっちゃう時もあると感じるのです。
上の表現であれば「私の趣味じゃない」と言っておるのであって、
お金をかけたい方はそうすればよいと思います。
TVをなるべく見せない方針ですが、TVを楽しんでいる親子がいるならそれは素敵だと思います。
みんなそれぞれの事情を抱えながら自分なりに考えた育児をすればいいと思っています。
子育ては生き方そのものですものね。
みんな違って当然です。
こんなこと書いたって、ここ読まないで別の部分だけ読んで不愉快になる人もいるかもしれないんだから
意味ないかもしれないし、自己満足の世界なんだけど、
それでも一度書いておかないと、なかなか思ってること書けない、と思って。
ずっと、こういうことが気になってミクシにも思ったこと書けなくて、
もっと価値観全開で書きたいなあ、と思っていたので、ここはそういう場にしたいと思っています。
ちょっとすっきりしました。
2009年07月22日
どんな子に育ってほしい?
どんな子に育ってほしいか?ということに思考がつながっていっていました。
まずは、健康に生まれて来てほしい?
じゃあ、健康に生まれてこなかったらどうするの?
同時に、よく報道されていた人の数十倍の早さで老いる病気のアシュリーちゃんのことを思い出していました。
一般的に見たら難病な訳だけれど、辛いこともいっぱいあるんだろうけど、
どこまでも優しくて自分の運命を受け容れていて、
お母さんのところに舞い降りた天使みたいだなと思っていました。
どうしたって、何%かの確率では障がいを持った子どもは生まれてくるもの。
私が通っていた産婦人科の先生は出生前診断(性別は別ですけどね)をしない方針だったこともあり、
どんな子どもが生まれて来ても受け容れようと決めていました。
でも、どういう子どもに育ってほしいか?については、自分がどういう道筋を子どもに示していくのか、
という柱でもあるのでぶれないことは必要だな、と思いました。
結果、必ずしも、親が思い描いた通りにならないとしても。
そこも飲み込んだ上で、「私はこれが大事だと思う」ということを伝えていく。
人間として一番大切なことは何か?
と、考えた時、「優しい人になってほしいな」と思いました。
というのも、私は20代後半の後半で夫と夫の母に出会い、
「どうしてこんなに優しいの?!」
とびっくりして結婚したようなところがあります。笑
どこでもそうだろうけど、うちの中で大事とされていたことと、
彼の家庭で大事にされていたことが全然違っていて、本当に驚きました。
うちでは、「ちゃんとしてる」ってことが大事だったと思います。
靴を揃えろ、字が汚い、塵が落ちてるのに気がつかないor気が付いてるのに拾わない、
教科書に落書きした、教科書とノートの向きが逆、箸の上げ下げ、肘をつくな、左手を添えろ、
食べるのが遅い、ドアは静かに閉めろ、足音がうるさい、
お客さんが来る前は水回りをきれいにしろ、人の悪い噂をわざわざ本人に伝える必要はない、
お店のウィンドーに手形をつけるな、
などなど、ということで毎日怒られていました。
その上に「粋」さを求められていた。笑
父からの最大級のけなし文句は
「お前はほんとーに気がつかんもんな。(よく気がつく子だ、の逆の意)」
「お前、いもねーちゃんだな(父の視点からみるとださい、ということらしい)」
「百姓一揆のごたる髪ばしてから(夕方になると、子どもの結わえた髪って解けてきますよね

意味はわからないなりにも、何だかとても嫌なことを言われているようだ!とだけはしっかりわかり、
格好には気をつけるようになったかも?
一方、彼の家庭では、そういうことには重きを置かれていない感じ。
いったいどうやって育てるとこんな(よい)息子に育つんですかお母さん?という質問に
「そうねえ~。何って言われると難しいけど、そう考えてみると、
とにかく人に思いやりをもちなさい、ということだけ言ってきた気がするわね~」って

普通のことなのかもしれないですが、ベタはあまり歓迎されない家に育った私にしてみれば
「そんな道徳の教科書みたいなこと真顔で言う人今時居るんかーい!」
とカルチャーショック。
同じ優しさでも、うちで「優しい」という言葉を聞いたのは
母が軽い交通事故を起こした時、いつもこわーい父に連絡した後、
大丈夫だった?怒られなかった?って心配顔で見上げたであろう私に
ふふん、という顔をして
「あの人は、こういう時は優しいのよ。」
と言ってたのを、やけに「やるやんパパ

それはそれで、別のあり方なので、どっちの家庭の方針がいいとか言ってるわけじゃないのです。
ちょっと脱線しましたが、そんな優しい夫と夫の母に出会い、
「きっと私に足りなかったものは優しさで、それに気付かせるために神様は出会わせてくれたのね

と、今でも本気で思っております。
たぶん、「ちゃんとしてて、粋である」ことが重要視されてきた我が家で育った私は、
意識しなくてもそういう傾向の子育てをするだろうことが予想されるので、
逆に自分に足りない部分、「優しさ」をテーマに子育てするくらいでちょうどいいんだ、と。
それから、ナウシカのマンガを古本屋で全巻で700円!でゲットして読みふけっていたので、
「ナウシカみたいに優しい(そして強い)人になってほしいな。」
と思っていました。
虫・・・私は嫌いだけど

自分が愛され、自分を肯定できた時にはじめて人に優しくできる。
無理に人に優しくするんじゃなくて、そうしたい、と思える人間だったら、生きていくのが楽しいはず。
今の世の中、悲しい事件がたくさんあるけど、
コミュニケーションがうまく取れないことだけが多分たった一つの原因で、
少なくとも自分の子どもを加害者にしないためには
「人が好き」というベースを作ってあげることしかできないんじゃないかと。
この話は長くなってきたのでまた今度・・・
実際出てきたら、顔を眺めまわした後、つい手と足の指が5本ずつあるかどうか確かめてしまったのも事実。
矛盾してるけど、人と同じでないということは困難を伴うことが多いし、
わが子にはそういう目にできるだけ合わせたくないと思うのも親心だから仕方ないかー。
などと、カンガルーケアの間考えていました。
そんな時も、私って理屈っぽい(^^;
子育てするようになると、このまま傷一つなく、痛い思いせずに生きられたらいいのにね、と思うようになり、これもまた親心。
それでも子どもは頭をごちんごちんいろんなところにぶつけながら、逞しく生きていっております

2009年07月20日
オイリュトミー&にじみ絵初体験
会場が城南町ということで、熊本市中心部に住んでいる私にとっては少々遠くて
開催されていることを知ってからもなかなかお邪魔できずにいたのですが、
今回はedibleさんとお会いするという目的も加わって、よいきっかけになりました。
edibleさんありがとうございます!
さて、城南町までバスを乗り継ぎ1時間、
更にメンバーの方に近くで車で拾ってもらってようやくたどり着きました


今回は子どもオイリュトミーで動きだけを先に体験し、
大人オイリュトミーではオイリュトミストの宇佐美陽一先生に解説していただきながら動くという、
二段階で楽しむことができました。
♪ 渦巻き貝殻どうしてできた
波がくるくる 渦巻いてできた
桃色貝殻どうしてできた
波がちんちら夕焼けてできた(?ちがったかな?)
まんまる貝殻どうしてできた
波がまんまる泡立ててできた ♪
この歌の言葉に合わせてみんなでくっついたり離れたりしながらゆったりと動いてゆきます。
高校の時授業でやった創作ダンスみたいな感じです。
あの時は受験勉強でカチカチになった創造力のない頭をふり絞って必死に考えて、
嫌で嫌で仕方なかったなあ。
いつも、頭で考えることばかりやらせるくせに、たまにこんな時だけ創造力を要求するなんて、無理よ!
みたいな気持ちだったかも。
今回は、動きに身を任せてなんとなーく気持ちいい上に、
ひとつひとつの動きに意味があるんだということをみんなで話しながら体で納得できた感じがしました。
oの形、aの形、uの形、nの形、というところで、
日本語とアルファベットの国の言葉の母音と子音に対する意識の違い、なんて話にも広がったり。
子どもオイリュトミーと大人オイリュトミーの間には、にじみ絵の時間。
水に浸した画用紙(普通より繊維が長くて強いもの)の余分な水分をスポンジで吸い取って、
絵の具を含ませた平筆をすぅーっと滑らせます。
色を塗るのが苦手だった私があら不思議。
真っ白な紙ににじんでいく青に、気持ちまですぅーっと涼しくなる気分!
今回のテーマは魚。
先日水族館に行ったばかりだったこともあり、
自分の中ではっきりイメージがあるテーマだったので気持ちよく描けました

多分、私が色を塗るのが苦手になったのは、父親に
「お前は、色を塗った瞬間絵がべたっとなるな。」
と中学生くらいの時言われて
「図星・・・」
と思った時以来。
遠近法を用いて写実的に描こうとする場合に技術的に未熟だったということだと思うのですが、
にじみ絵だとそんなこと気にしなくていいというか、目指す?ところが違う。
自分の苦手意識が取り払われて、癒しの時間となりました

にじみ絵はちいさな子でもできるので、早速シュトックマーの絵の具(←形から入りたい人です

を買いに行って、娘と楽しみたいと思います♪
2009年07月17日
beautiful!
無視するでもなく目を合わせるでもなく通り過ぎようとしたところ、
"2 years?"
と質問が。ええっとええっと?歳ね!
"1 years あ いやいや 1 yaer"
と答えたら、
「うちの赤ちゃんは3ヶ月なんだ。だから赤ちゃん見ると1歳かな2歳かなとか思うんだよ」
とのこと。(和訳。)
「おー、ソーリトルね。」
と言ったら、もう一度娘の顔を見て
"beautiful!"
と言って立ち去って行かれました。
そう言えば、以前着物で抱っこしていて外国人観光客の御一行に写真を撮られた時も
赤ちゃんの娘に向って
"so beautiful!"
と何度も言っていたなあ、と思いだしました。
日本人は、赤ちゃんを見ると
「可愛い~

って言うから、英語だと
"lovely!"
のイメージだったので、意外。
であると同時に、一瞬かあっとなるくらい嬉しかったのでした。
なんでだろう?と思ってみると、
「可愛い

も、もちろん感じた通りの賛辞でとっても嬉しいのだけど、庇護しなきゃならないか弱いもの、という感じなのに対して
"beautiful"
には、美しいものとして敬うような気持ちが感じられるなあと。
7歳までは神の子、という表現があるそうですが、
特に寝顔なんかは弥勒菩薩のようだなあと思うことがよくあります。
そういった、子どもの持つ神々しさのようなものまであらわしているような気がして
いいなあ、と思った言葉がけでした。
2009年07月07日
イトコたちとの交流
夫は妹と2人兄弟。
その妹は夫より早く結婚・出産し、20代半ばですでに3歳・2歳・0歳の3人の娘がいます
先日、みんなで夏に集まろう!という電話を義母にしていたら、
ちょうどその妹の家にお手伝いに行っていたようで、電話のむこうから3歳・2歳姉妹の
「ばあちゃん!ばあちゃん!ばーちゃーん!」
と、けたたましい声が
「あなたたち、ちょっと待って頂戴、ばあちゃん今大事な話してるからね」
となだめても一向にやむ気配のないラブコールに、義母が
「もー、あななたたち、金魚のフンみたいに私にくっついて回って、もしかしてあななたち、私のファン?」
と言い返しました。
そしたら、2人揃って
「ファンー!」
て。
2人で吹き出してしまいました。
また、傘を持って外へ出かけようとしたのを見た義母が
「ちょっとちょっと、雨降ってないんだから傘はいらないんじゃないの?あぶないわよ」
と注意すると、
「だって、これでバス停ごっこするんだもん!」
とのこと。
トトロみたい!と思っちゃいました。
まだうちの娘はそんなおしゃべりをする年頃でないので、
具体的にファンタジーの中で遊ぶ子どもの姿が想像しかできなかったのですが
(今時、オフィスで働いてたんじゃ、なかなかよその子の遊びの場面に出会う機会もありません)
こういうことなのね~、ふむふむ。
まだ秩序だってない感じで一人でゴニョゴニョ言って何かに没頭している後姿もたまりませんが、
もうちょっと大きくなるとこういうことが起こるのか
昨年の夏に会った時は娘はねんねの赤ちゃんでイトコたちと一緒に遊べなかったけど、今年は何やらの絡みは出てきそう。
ワイルドなお姉ちゃんたちの洗礼を受けてどんな対応をするのか見ものだわ楽しみです!
2009年07月07日
かわいい瞬間














「おっぱいおいしい


2009年07月03日
成長について
子どもの成長は、
「ゆっくり、大きくなってね。」
が、私の、自分に言い聞かせていることであり、
すとんと腑に落ちる言葉でもあります。
もちろん、その時のその子に合った「できるようになること」があるのだろうけれど
「できるからエライ」「できたから好き」なんじゃなくて、
「あなたがあなただから好き」なのだということが伝わるように心掛けていきたいなあと思います。
0~7歳は模倣の時期、というのは納得で、
毎日私と夫、保育園の先生のすることを一つずつくらいできるようになる。
親だからびっくりするし、素直に、嬉しいと思うと
「すごおい!上手ねえ!」とか
「そんなこともわかるの。お母さんのまねしたの。お利口ねえ。」とか
「大人みたいだね~」とか
「あんたはかしこい!」とか
「天才!」とか
「オットナ~」とか(笑)
という言葉が口をついて出てくる。
これがいいのかどうだか、しばらくたってからよく考える。
大人と同じことができるからすごいのか?
子どもに大人になることを求めているのか?
それとも、こんなのは考えすぎなのか?
ほめたいという素直な親の気持ちをぐっとこらえる、というのはヘンだと思う。
でも、「ゆっくり育て」という自分の気持ちと矛盾していないのかな?
このへんは、もうちょっと考えてみて、しっくりくるところを見つけたいなあと思う。
成長といえば、
妊娠中出会った、マザーズシップのぽじおさんの
「いつも、『今が一番いい時』。」
も、ふとした時に心にふわっと浮かんできます。
私の親がそうだったように
いつの時も人に向って子どもの悪口や「昔はかわいかった」などの言葉は吐かないぞ、
と心に決めています。
ただの言葉かもしれないけど、言葉は言霊だから。
言葉の上だけでなく、そう思わないような生き方を自分がしていきたい。
2009年06月16日
シュタイナーとの出会い
お客さんにシュタイナー学校のお母さんたちの集まりや、街中の店を畳んで田舎のシュタイナーコミュニティに引っ越して行く方がいらっしゃったりして、何なのかは知らないまま「ああ、はい、シュタイナーね。」と聞いたことだけはある言葉になっていました。
それから、会社の取扱商品であるバイオダイナミック農法の紅茶の産地、インド・ダージリンを訪ねた時、それがシュタイナーの提唱した農法で、シュタイナー哲学は教育だけでなく広範囲に渡っているのだということを知りました。
でも、その時はまだまだばりばり仕事をしたい時期で、子どもを産むのは先のことだし一応アンテナに引っかかったものとして心の片隅に置いておこ、必要になったら引っ張り出せばいいや、くらいの認識でした。
私って、興味があることがたくさんすぎるので、優先順位つけるところがあるのです。
子育て・教育のことって奥が深そうだし、暗い話も多いし、どうせいつか直面しなきゃならない時が来るんだから、今は考えたくなーい、と。
TVの教育問題に関するドキュメンタリーなんかも、考えたくないから見るのを避けていました。
時は過ぎ。
妊娠発覚、結婚、となった時、さて、妊婦雑誌に目が行きます。
ミーハー嫌いの私としてはベネッセやリクルートの思うツボにはまってたまるか、と思うのですが、
そこはまずは敵(?)を知らねば、とも思う質で、とりあえず1冊購入。
案の定、早期教育の教材広告や赤ちゃん便利グッズが目白押しです。
「○十万だって!ありえん~」などと言いながら眺めていると、夫が「バカにするなら読まなきゃいいじゃないか」。
そうなんだけどね、知らずにいるのもいやなのよ。
知った上で、取捨選択したいじゃないですか。
でも、たくさんのモノを見ていると、キリがないというか、いろいろありすぎて何がいいのかわからなくなってきそうです。
周りにお母さんになった友だちがいなかったのでそういう意味では価値観的にコドクで、
「リンカラン」の妊娠・出産特集増刊号を読んだり、遠くの分かり合える昔の同僚と電話や手紙でやり取りして、
「よかった、こういう価値観の人もいるよね!」と自分をはげましていました。
そんな時、ふと、
「そういや、シュタイナーてあったな。あれって何だったんだろう?
自分と価値観の合う人たちがよしとしていたものだから、私もいいと思うかも。」
と思い、まずはクレヨンハウスから出ているムック「シュタイナーの子育て」を読んでみました。
よくわからない部分やできるかな?というところ、ちょっとちがうかなあと思うところもありましたが大筋共感できるものだったので、シュタイナーのことをもっと知ろう、共感できることは心に留め置いて育児に活かしてみよう、という気持ちになりました。
あと、出産前に買ったのは、「親だからできる赤ちゃんからのシュタイナー教育」(ラヒマ・ボールドウィン著)。
妊娠中はなかなか育児のことをリアルに感じることができなかったのですが、
この本の生まれたての赤ちゃんの部分を読んで想像をふくらませ、微弱陣痛の数日間も産院で手元にずっと置いていました。
その後、やはりクレヨンハウスのムック「のびのび子育て」を読んで他のモンテッソーリ、フレーベル、その他の教育論について知ったり、シュタイナーの勉強会に参加したり、実際子育てしつつ感じること、周りの人たちとのつながり、保育園探しの中で、
「やっぱり、シュタイナーの考えが一番共感できる。もっと知りたい」
という気持ちになっていきました。
今は、シュタイナーの考え方に固執するのではなくて、自分なりに子どもを感じて一緒に生きていきたいなあという気持ちでいます。
子どもにだけ注目するのではなく、自分自身の成長にも目を向けていきたいです。
2009年06月15日
やっとはじめました。
シュタイナー的、というほど勉強できていませんが、わたしなりの、子育てについて思うことを書いてみて、価値観の近い方と出会えるといいなあと思いながら書くことにします。
今日は、いいお産の日in熊本2009のちらしの校正をしているうちにこんな時間・・・
ムスメは数時間前、膝に乗せて授乳しながらPCに向かっている間に寝てしまいました。
シュタイナー的などと標榜しているくせに、電磁波的にも最悪です

旦那さんが帰って来たので、今日はここまで~。