2009年07月22日
どんな子に育ってほしい?
妊娠して、出産するまでの間、どんな名前がいいかな?とあれこれ考えていると、
どんな子に育ってほしいか?ということに思考がつながっていっていました。
まずは、健康に生まれて来てほしい?
じゃあ、健康に生まれてこなかったらどうするの?
同時に、よく報道されていた人の数十倍の早さで老いる病気のアシュリーちゃんのことを思い出していました。
一般的に見たら難病な訳だけれど、辛いこともいっぱいあるんだろうけど、
どこまでも優しくて自分の運命を受け容れていて、
お母さんのところに舞い降りた天使みたいだなと思っていました。
どうしたって、何%かの確率では障がいを持った子どもは生まれてくるもの。
私が通っていた産婦人科の先生は出生前診断(性別は別ですけどね)をしない方針だったこともあり、
どんな子どもが生まれて来ても受け容れようと決めていました。
でも、どういう子どもに育ってほしいか?については、自分がどういう道筋を子どもに示していくのか、
という柱でもあるのでぶれないことは必要だな、と思いました。
結果、必ずしも、親が思い描いた通りにならないとしても。
そこも飲み込んだ上で、「私はこれが大事だと思う」ということを伝えていく。
人間として一番大切なことは何か?
と、考えた時、「優しい人になってほしいな」と思いました。
というのも、私は20代後半の後半で夫と夫の母に出会い、
「どうしてこんなに優しいの?!」
とびっくりして結婚したようなところがあります。笑
どこでもそうだろうけど、うちの中で大事とされていたことと、
彼の家庭で大事にされていたことが全然違っていて、本当に驚きました。
うちでは、「ちゃんとしてる」ってことが大事だったと思います。
靴を揃えろ、字が汚い、塵が落ちてるのに気がつかないor気が付いてるのに拾わない、
教科書に落書きした、教科書とノートの向きが逆、箸の上げ下げ、肘をつくな、左手を添えろ、
食べるのが遅い、ドアは静かに閉めろ、足音がうるさい、
お客さんが来る前は水回りをきれいにしろ、人の悪い噂をわざわざ本人に伝える必要はない、
お店のウィンドーに手形をつけるな、
などなど、ということで毎日怒られていました。
その上に「粋」さを求められていた。笑
父からの最大級のけなし文句は
「お前はほんとーに気がつかんもんな。(よく気がつく子だ、の逆の意)」
「お前、いもねーちゃんだな(父の視点からみるとださい、ということらしい)」
「百姓一揆のごたる髪ばしてから(夕方になると、子どもの結わえた髪って解けてきますよね
)」
意味はわからないなりにも、何だかとても嫌なことを言われているようだ!とだけはしっかりわかり、
格好には気をつけるようになったかも?
一方、彼の家庭では、そういうことには重きを置かれていない感じ。
いったいどうやって育てるとこんな(よい)息子に育つんですかお母さん?という質問に
「そうねえ~。何って言われると難しいけど、そう考えてみると、
とにかく人に思いやりをもちなさい、ということだけ言ってきた気がするわね~」って
普通のことなのかもしれないですが、ベタはあまり歓迎されない家に育った私にしてみれば
「そんな道徳の教科書みたいなこと真顔で言う人今時居るんかーい!」
とカルチャーショック。
同じ優しさでも、うちで「優しい」という言葉を聞いたのは
母が軽い交通事故を起こした時、いつもこわーい父に連絡した後、
大丈夫だった?怒られなかった?って心配顔で見上げたであろう私に
ふふん、という顔をして
「あの人は、こういう時は優しいのよ。」
と言ってたのを、やけに「やるやんパパ
」ってな感じかたをしたのを覚えているくらい。
それはそれで、別のあり方なので、どっちの家庭の方針がいいとか言ってるわけじゃないのです。
ちょっと脱線しましたが、そんな優しい夫と夫の母に出会い、
「きっと私に足りなかったものは優しさで、それに気付かせるために神様は出会わせてくれたのね
」
と、今でも本気で思っております。
たぶん、「ちゃんとしてて、粋である」ことが重要視されてきた我が家で育った私は、
意識しなくてもそういう傾向の子育てをするだろうことが予想されるので、
逆に自分に足りない部分、「優しさ」をテーマに子育てするくらいでちょうどいいんだ、と。
それから、ナウシカのマンガを古本屋で全巻で700円!でゲットして読みふけっていたので、
「ナウシカみたいに優しい(そして強い)人になってほしいな。」
と思っていました。
虫・・・私は嫌いだけど
ガマンするよ娘のために!
自分が愛され、自分を肯定できた時にはじめて人に優しくできる。
無理に人に優しくするんじゃなくて、そうしたい、と思える人間だったら、生きていくのが楽しいはず。
今の世の中、悲しい事件がたくさんあるけど、
コミュニケーションがうまく取れないことだけが多分たった一つの原因で、
少なくとも自分の子どもを加害者にしないためには
「人が好き」というベースを作ってあげることしかできないんじゃないかと。
この話は長くなってきたのでまた今度・・・
実際出てきたら、顔を眺めまわした後、つい手と足の指が5本ずつあるかどうか確かめてしまったのも事実。
矛盾してるけど、人と同じでないということは困難を伴うことが多いし、
わが子にはそういう目にできるだけ合わせたくないと思うのも親心だから仕方ないかー。
などと、カンガルーケアの間考えていました。
そんな時も、私って理屈っぽい(^^;
子育てするようになると、このまま傷一つなく、痛い思いせずに生きられたらいいのにね、と思うようになり、これもまた親心。
それでも子どもは頭をごちんごちんいろんなところにぶつけながら、逞しく生きていっております
どんな子に育ってほしいか?ということに思考がつながっていっていました。
まずは、健康に生まれて来てほしい?
じゃあ、健康に生まれてこなかったらどうするの?
同時に、よく報道されていた人の数十倍の早さで老いる病気のアシュリーちゃんのことを思い出していました。
一般的に見たら難病な訳だけれど、辛いこともいっぱいあるんだろうけど、
どこまでも優しくて自分の運命を受け容れていて、
お母さんのところに舞い降りた天使みたいだなと思っていました。
どうしたって、何%かの確率では障がいを持った子どもは生まれてくるもの。
私が通っていた産婦人科の先生は出生前診断(性別は別ですけどね)をしない方針だったこともあり、
どんな子どもが生まれて来ても受け容れようと決めていました。
でも、どういう子どもに育ってほしいか?については、自分がどういう道筋を子どもに示していくのか、
という柱でもあるのでぶれないことは必要だな、と思いました。
結果、必ずしも、親が思い描いた通りにならないとしても。
そこも飲み込んだ上で、「私はこれが大事だと思う」ということを伝えていく。
人間として一番大切なことは何か?
と、考えた時、「優しい人になってほしいな」と思いました。
というのも、私は20代後半の後半で夫と夫の母に出会い、
「どうしてこんなに優しいの?!」
とびっくりして結婚したようなところがあります。笑
どこでもそうだろうけど、うちの中で大事とされていたことと、
彼の家庭で大事にされていたことが全然違っていて、本当に驚きました。
うちでは、「ちゃんとしてる」ってことが大事だったと思います。
靴を揃えろ、字が汚い、塵が落ちてるのに気がつかないor気が付いてるのに拾わない、
教科書に落書きした、教科書とノートの向きが逆、箸の上げ下げ、肘をつくな、左手を添えろ、
食べるのが遅い、ドアは静かに閉めろ、足音がうるさい、
お客さんが来る前は水回りをきれいにしろ、人の悪い噂をわざわざ本人に伝える必要はない、
お店のウィンドーに手形をつけるな、
などなど、ということで毎日怒られていました。
その上に「粋」さを求められていた。笑
父からの最大級のけなし文句は
「お前はほんとーに気がつかんもんな。(よく気がつく子だ、の逆の意)」
「お前、いもねーちゃんだな(父の視点からみるとださい、ということらしい)」
「百姓一揆のごたる髪ばしてから(夕方になると、子どもの結わえた髪って解けてきますよね

意味はわからないなりにも、何だかとても嫌なことを言われているようだ!とだけはしっかりわかり、
格好には気をつけるようになったかも?
一方、彼の家庭では、そういうことには重きを置かれていない感じ。
いったいどうやって育てるとこんな(よい)息子に育つんですかお母さん?という質問に
「そうねえ~。何って言われると難しいけど、そう考えてみると、
とにかく人に思いやりをもちなさい、ということだけ言ってきた気がするわね~」って

普通のことなのかもしれないですが、ベタはあまり歓迎されない家に育った私にしてみれば
「そんな道徳の教科書みたいなこと真顔で言う人今時居るんかーい!」
とカルチャーショック。
同じ優しさでも、うちで「優しい」という言葉を聞いたのは
母が軽い交通事故を起こした時、いつもこわーい父に連絡した後、
大丈夫だった?怒られなかった?って心配顔で見上げたであろう私に
ふふん、という顔をして
「あの人は、こういう時は優しいのよ。」
と言ってたのを、やけに「やるやんパパ

それはそれで、別のあり方なので、どっちの家庭の方針がいいとか言ってるわけじゃないのです。
ちょっと脱線しましたが、そんな優しい夫と夫の母に出会い、
「きっと私に足りなかったものは優しさで、それに気付かせるために神様は出会わせてくれたのね

と、今でも本気で思っております。
たぶん、「ちゃんとしてて、粋である」ことが重要視されてきた我が家で育った私は、
意識しなくてもそういう傾向の子育てをするだろうことが予想されるので、
逆に自分に足りない部分、「優しさ」をテーマに子育てするくらいでちょうどいいんだ、と。
それから、ナウシカのマンガを古本屋で全巻で700円!でゲットして読みふけっていたので、
「ナウシカみたいに優しい(そして強い)人になってほしいな。」
と思っていました。
虫・・・私は嫌いだけど

自分が愛され、自分を肯定できた時にはじめて人に優しくできる。
無理に人に優しくするんじゃなくて、そうしたい、と思える人間だったら、生きていくのが楽しいはず。
今の世の中、悲しい事件がたくさんあるけど、
コミュニケーションがうまく取れないことだけが多分たった一つの原因で、
少なくとも自分の子どもを加害者にしないためには
「人が好き」というベースを作ってあげることしかできないんじゃないかと。
この話は長くなってきたのでまた今度・・・
実際出てきたら、顔を眺めまわした後、つい手と足の指が5本ずつあるかどうか確かめてしまったのも事実。
矛盾してるけど、人と同じでないということは困難を伴うことが多いし、
わが子にはそういう目にできるだけ合わせたくないと思うのも親心だから仕方ないかー。
などと、カンガルーケアの間考えていました。
そんな時も、私って理屈っぽい(^^;
子育てするようになると、このまま傷一つなく、痛い思いせずに生きられたらいいのにね、と思うようになり、これもまた親心。
それでも子どもは頭をごちんごちんいろんなところにぶつけながら、逞しく生きていっております
